冷たい風が運ぶ恋

女社長の下で男は8年労働をした。女社長は腹がでっぷりと出て眼鏡をかけて矯正下着販売のセールスで目覚ましい売上を誇り、それを元手に天然酵母を使ったベーカリーショップや化粧品販売、アクセサリーショップなど多角経営により巨万の富を得ていた。男は高校時代に叔父の家に盗みに入りそれが見つかり家を勘当同然に追い出された。男は中学生の時に母を交通事故で失ってから荒れる様になり、家庭も荒んだ。男が家を出るときに、父も兄も妹も冷たい眼で男を見つめた。男はその冷たい眼を見つめてここには二度と帰る事が出来ないと思った。男はバッグに8千円と3日分の服を詰め込んで、路線バスに乗り込み、隣町のアーケードのある商店街で夜を明かした。母の故郷だった。母の匂いがその街にはあった。男はそれだけで心癒された。寒さが身に染みる12月のアーケードはとても寒かった。どれだけ服を着こんでもコンクリートの地面は冷たかった。さびれた商店街には人通りがなく男はハンバーガーショップで買った冷たくなったハンバーガーをかじった。白い脂がごてりとついていた。コンクリートに段ボールを敷いて横になっていた。横になっていても眠りにつく事が出来ない。男は目を瞑っていた。しばらくすると「こんなところで何をしているの?」と女の声がした。それが女社長だった。女社長は指にはエメラルドとルビーの指輪を嵌めた左手で男を揺すった。男は上体を起こすとそこにはあざらしのような女が、はちきれそうな太ももとふくらはぎを密着させて今にも折れそうなヒールがカタカタと揺れながら座って男に触れていた。女社長は「家出したの?」と男に言った。男は寒さにカタカタと歯を鳴らしながら頷いた。「ついてきなさい」男は導かれるように女社長の後についていった。床に敷いていたい段ボールが強い風にあおられてアーケードの中を音を立てながら飛んでいった。女社長の自宅は絵に描いたような豪邸で、男は風呂に入るように施されて、家政婦が作ったハヤシライスを食べた。腹が満たされて眠くなった男は、テーブルに倒れ掛かるようにしてしばらく眠った。起きた時には夜中3時を回った頃だった。壁掛け時計の針がカチカチと音を立てていた。自分は一体どこにいるのか目覚めた時に判断がつかずに慌てた。しばらく考えて自分はこれからどうなるのだろうかと漠然と思った。男は台所にあったハヤシライスのルーを手で掴んで口に入れた。母はハヤシライスを作ってくれたことはなかったが母の味のような気がした。男は手についたハヤシライスを舌で嬲った。自然と湧き上がる涙を抑える事が出来なかった。男はしっかりとした皮のソファーに腰掛けて夜が明けるのを待った。夜が明けるまでこんなに長い時間かかるのかとその長さに愕然とした。夜が明ける前に家政婦がやって来て、男に眠れたか聞いた。とても優しい声だった。しばらくすると女社長が起き出してきた。ネグリジェを着た女社長はしばらくここに居ていいから気が済んだら、家に帰りなさいと言った。男は女社長と朝食を食べながら、事情を説明した。女社長はそれなら3日後から私の会社で働きなさいと男にスーツをあつらえて、住む場所を提供した。男は女社長に遣えようと心に決めた。母と死に別れてから悪い事しかしなかった男であったが、もともと素直で頭のいい人間だった。すぐに仕事を覚えてしばらくすると女社長の片腕となって会社の売上に貢献するようになった。男はどれだけいい業績を残してもでしゃばる事はなかった。男は女に遣える事の喜びを仕事を覚える事で、女社長に遣える事で知っていた。男は女社長に8年仕え、立派な青年に変わって行った。女社長はそんな男の人柄を買って、女社長の姪との交際を勧めた。しかし男には好きな女性がいた。故郷の従姉が初恋の女性でずっと恋焦がれていた。女社長に遣えてきた男であるが、それだけは女社長に遣える事が出来なかった。女社長は男の気持ちを尊重して、男に故郷に一度里帰りしてはどうか提案した。男は家出した時に揺られてこの街へきた路線バスに乗って、故郷へ帰った。8年も経つと街並みが変わる。男の家の周辺には大型スーパーが出来ていて、男が幼い頃遊んだ雑木林は住宅地になっていた。男は高鳴る胸を抑える事が出来なかった。家のチャイムを鳴らすと、中から懐かしい妹の声が聞こえた。「どちら様ですか?」と扉越しに妹の声が聞こえる。「俺だけど」男は震える声で言った。しばらく間があって、鍵をはずす音が聞こえる。「お兄ちゃん」。妹はサンダルを履いて立ち尽くしていた。男は引きつった笑顔で「今帰った」と言った。「お父さん呼んで来るね」と言うと奥に「お父さん」と呼びながら入っていった。自宅は他人の家のようで落ち着かなかった。男を見て、男の父は無言のまま男がどのように過ごしてきたか探ろうとしていた。男は父に弁解の言葉を述べて、叔父の家に謝りに行きたいことと、叔父の家の娘と結婚したい事を告げた。男の父は唇を真一文字に結んで腕組みをして考えていたが、それは出来ないと男に告げた。そして、怒りを露わにして、男に「出て行け」と再び言った。男は冷静に父に話をしたが、理解をしてもらえなかった。男は若い頃とは言え自分の犯した罪の重さを再び噛みしめながら、女社長の下へ戻った。女社長は男の親に会わせてもらえないかと男に提案して、父に連絡をして、父に会いに行った。女社長は話術に長けていて、男の親に男の誠実さと仕事に対する意欲の深さをこんこんと説明した。そして叔父の家に乗り込み、叔父を説得した。男は叔父に謝り、犯した罪を今でも悔いている事を告げた。叔父の娘は美しい女だった。8年前よりも美しい女になっていた。男と叔父の娘は話す機会を与えられて、共に話した。そして、叔父の娘は美しくなったが魂は穢れてしまっている事を男は知り失望して、結婚の話をする事なく叔父の家を後にした。女社長は男の失望を知り男を励ました。そして女社長の姪と今度話しないかと提案した。男は女社長の目を見つめて、しばらく女性の事は考えたくないと頑なに言った。女社長は「そう」とだけ呟き、男の気持ちを察した。男はそれからも女社長に遣えて、女社長の会社の発展に力を尽した。女社長は街の発展にお金を還元して、名誉も手に入れた。それに対する男の貢献度も大きなものだった。いつからか男は女社長に恋をしていた。女社長75歳、男は37歳の年に男は女社長に結婚を申し込んだ。女社長も孫ほど違う男を育ててきたが、恋心を抱いていた。女社長は今でもあざらしのような体型で、独身のままだった。女社長と男は結婚した。しかし周りの風評はあまりよろしくなく、財産目当てとか年齢を考えて結婚しろとか好きな事を言う人間が多く現れて二人を苦しめたが、長年育んだ愛はそれをもろともしなかった。しばらくすると女社長は認知性になり、男はかいがいしく介護をした。ある程度財産を蓄えていたので生活は安定し、男は仕事を部下に任せて、女社長を介護した。女社長が亡くなるまで男は女社長の傍で遣えた。男は遣える事の喜びを学んでいたし、喜びと感じていたので苦にしなかった。女社長が亡くなった時、財産分与で親族ともめた。男は女社長の遺言どおり、遺骨を女社長の望む場所へお墓を作り、親族ともめた遺産は男が生活できるわずかだけのお金だけもらって財産争いから脱け出した。男は実家に帰ることはなかった。男は母の故郷であり女社長とであった街でひっそりと暮らした。しかしそれはとても穏やかな生活だった。男は老人になっても思い出す。家を飛び出してシャッターの下りた商店街で寝転がっていた若き頃の自分を。

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