今から、15年前ぐらい30代の頃に実話を脚色して書いた作品です

長いうえに、乱筆乱文です。

「白いタオル」 

玄関の引き違いの扉を開けると、一目見て、姿、雰囲気から好感が持てる女性が立っていた。歳は二十代前半だろう。身だしなみが整い落ち着いた風情の中に、まだ幼さが残り、それは、穢れを知らないピュアと表現されるにふさわしい雰囲気が、内面から滲み出ているように錯覚した。泰彦は二回瞬きして、目を見開いて女性を見つめた。花のコサージュのついたベージュ色のヘンプハットを深くかぶり、ヘンプハットのツバの影から、優しそうな目が泰彦の目を捉えて、深々と会釈した。 

泰彦は我に帰り、女性に好感を抱く一方、宗教活動か、訪問販売か、どんな言葉を切り出してくるのか身構えた。女性は、衣料品店で買い物をしたときに商品を入れて渡してくれるような、縦長の紙袋を手に提げている。その紙袋は新しいものではなく、ややくたびれて中ほどが膨らんでいて、いかにも胡散臭そうに見えた。その胡散臭さは、好感が持てる女性が持っているからこそ、ますます胡散臭そうに見えた。 

女性は、一言一言確かめるように丁寧に「福祉援助団体のA会からボランティアで募金活動をして回っています」と述べた。 

泰彦の家には、時折、こうやって募金活動を目的に、いろいろな人が玄関のベルを鳴らす。泰彦の父親は、募金活動をして集めたお金がどんな風に使われるか、確認しないまま募金活動をしている人にお金を渡す。 

泰彦の母親は、父親とは反対で、募金活動をするために訪れる人を穿った目で見て、決してお金を渡さない。話も聞かない。門前払いする。だから、訪問してきた人にいつもほいほいと募金する父親を、また騙されてとなじり、父親は泰彦の方を向いて、舌を出して笑って済ませている。 

泰彦は、父がなぜ募金活動に訪れる人に募金するか、以前に聞いたことがある。そのときに、「ああやって、各家を訪問しながらお金を集めている人は、辛い経験をしてきた人が多いだろうと思うから」と話した。 

泰彦の父は、人が良いのか、訪問販売に来た画商から高い絵を買ったりもする。その絵が本物の絵かどうかも確かめずに買うものだから、母親と大喧嘩した事もあった。 泰彦は、胡散臭さと良い印象と両方感じる女性に、興味を引かれて話を聞いてみる事にした。 

女性は紙袋を開けて、中からビニール袋に入った白いタオルを手に取って、「福祉援助のための募金活動をしていて、募金をしてもらう変わりにタオルを渡しています」「募金は幾らすれば良いのですか?」「二千円です」やや恐縮した声で控え目に言った。 

泰彦は、女性から白いタオルを渡されながら、そのタオルと二千円を両天秤にかけ、どう考えても二千円でタオルを買ったと思っても、ものすごい損失だと思って顔をしかめた。どうせ募金するならタオルはいらない。 

泰彦は、靴箱の上に花瓶に活けられているリンドウの花を見つめながら、腕を組んでしばらく考えこんだ。 

ぴんと張り詰めた緊張感の中、女性は、硬い笑顔で泰彦の顔を見つめていた。「そのお金はどんな目的に使われるのですか?」

「福祉援助のために使われます」

「あなたはどこから来たのですか?」

「この街に住んでいます。名前は、相原と言います」 

泰彦は、精神障害者で地元の福祉施設で、賃金時給百円で働いている。内職作業を5時間して、一日の収入が五百円だ。あとは、少ない年金で生活をどうにか成り立たせている。

「私は、精神障害者なのですが、私たちが住んでいるこの街の福祉施設にもお金は回ってくるのでしょうか?」

私は、精神障害者と名乗る事をためらいつつも、そう名乗ることが大切なことであるように感じた。この女性なら、私が精神障害者であると告白しても、受け止めてくれるだろうという甘い期待と、二千円の重みをしっかりと感じてほしいという願望を込めたかった。

「私はどのようにお金が使われているのかまでは知りません」 

相原と名乗る女性は、それがまるで重要なことではないような軽い口調で答えた。 

泰彦はそこが大切なのにと思いながら、決断をしなければならないじりじりとした時間の中で、もう少し情報がほしいと思った。そして、女性が持っているパンフレットを見て、「そのパンフレット見せてもらえませんか?」と尋ねた。「どうぞ」と女性は泰彦にパンフレットを手渡した。 

女性が持っていたパンフレットには、格子状に折り目がついていて、その折り目に沿ってところどころ破れて、皮脂で汚れて、使い込まれていることが見て取れた。パンフレットに目を通すと、一番初めにA会の文字が、そして、HPアドレスが目に飛び込んできた。HPアドレスがあると、何だか安心したような気持ちになった。福祉援助団体は、この街にある福祉援助団体ではなくて、聞いた事のない遠い街の団体で、遠く海外でも活動していると説明されていた。

「パンフレット一部、頂くこと出来ますか?」

女性は少し困ったような顔を見せながらも、笑顔でそれをどうぞと手を添えて言った。どうやら女性は、パンフレットは手持ちの一枚しか持っていないらしかった。 

泰彦は奥の部屋に行き、財布から千円札二枚取り出して、玄関に戻った。そして、笑顔で「どうぞ、使ってください」と二千円を渡した。女性は、硬い表情の笑みから、ほっとしたようなやわらかい笑みに変わり、

「領収証を切るので、名前を教えて下さい」とウエストポーチの中から、領収証を取り出した。泰彦は女性が領収証を取り出したところで、きちんと募金活動しているところなんだと疑いが晴れたような気持ちになった。女性は領収証に泰彦の苗字を書いて、泰彦に渡した。

そして、タオルを手渡されて、何か違うよなと思いつつ、それでも女性を気遣って「まだ暑いから、気をつけて」と言葉をかけた。

「ありがとうございます」女性は、何度もお辞儀をしながら、玄関の扉を閉めて立ち去った。 また、この近所の家を回るのだろうなと思いつつ、パソコンを開きインターネットに繋ぎ、検索でパンフレットに書いているA会を調べてみた。A会の名前では、多数の記事があり、いろいろな記事を読んでみた。インターネットは便利だなと思いつつ、どの記事が正しいのか分からないまま、いろいろな記事を見て回った。あるサイトでは、A会はある宗教団体の組織の一つで、福祉活動を名目にして物を販売し、そのお金を活動資金に宛てていると言うショッキングな記事を見つけた。

あるサイトでは、A会は福祉活動や緑化活動をしている記事が掲載されていた。泰彦の頭に強烈に焼きついた言葉は、宗教団体の活動資金に流れていると言う記事で、それが正しいのかどうか分からないまま、それを信じる事にして、二千円とは言え、とても大切なお金だ。怒りというより悲しみがこみ上げてきて、まだ近くにいるだろう女性を探すために、玄関のサンダルを履いて、家の近所を探し回った。

しばらく西へ東へ探し、泰彦の家の五軒隣の家で、募金を断られているところを見つけた。その家の人は迷惑そうな顔で断り、玄関の扉を閉めた。女性は何事もなかったような顔で、門扉のところまで戻ってきて、泰彦の顔を見た。女性と目が合ったところで

「私の家までもう一度来てもらえないですか?」と目で合図しながら言うと、はい、と女性は緊張感のある声で返事した。泰彦は自分の家の門扉の前で女性を待ち、女性が泰彦の家にたどりつくと

「今、インターネットでA会について調べてみたら、福祉の名を語ってお金を集めて、ある宗教団体の活動資金にしているらしいという記事にめぐり当たりました。あなたはご存知ですか?」

「私のところは違います」女性はきっぱりと答えた。

「二千円で販売するのは、クーリングオフがきかないように設定しているためらしいのですが、ご存知ですか?」

「そんなことありません。二千円ならお返しすることが出来ます。それに、この募金活動は宗教団体とは関係ありません」

「インターネットの記事も信憑性に欠けるかもしれないのですが、そういう情報が流れているという事実もあることですし、二千円戻してくれますか?」

女性は、ウエストポーチから二千円を取り出した。ウエストポーチの中には、千円札が無造作に何枚も束ねられていて、女性は震える手で千円札を二枚取り出して、泰彦に返した。泰彦は、女性にタオルを返した。

「あなたと少しだけお話したいのですが、いいですか?」

女性はこわばった顔になった。

「あなたを責めるつもりで、引き止めるのではないのです。私の身の上話を少し聞いてもらいたいのです」

女性は泰彦の顔を見ながら、引きつった笑顔で少しだけならと答えた。まだ、初秋の陽射しが厳しい中、女性の額から汗が滲んでいた。

「あなたはとてもきれいな目をしています。そして、優しそう」

女性は黙ったまま、うつむいた。

「私は先ほどお話したように、精神障害者なのです。この街の福祉施設で内職作業をしています。本当は働く場所を探しているのですが、病気のことを理解してくれる職場がなかなかなくて、時給百円で働いています」 

泰彦は、女性の顔色をうかがいながら、ところどころつかえながら話した。本当は一番話したいところなのに、そういうところほどつかえてうまく話せない。そして、女性に向かって、あなたは騙されていますと言う言葉は、もっと言えない。その一言は、女性を深く傷つけるように感じた。

「人間って、残酷な生き物ですね」女性はうつむいていた顔をぱっと上げ、泰彦を不思議そうに見つめた。泰彦は、その目に吸い込まれそうになった。

「私は、大学生のときに精神病にかかって、闘病生活10年になります。私は、精神病である事をこれまで隠して生きてきました。ごく親しい人たちは知っていますが、近所の人にも、私が精神病である事は伏せてきました。それは、精神病に対して偏見がある世の中だからです。あなたも私が精神病であると言うことで偏見の目で見ますか?」

泰彦は言ってしまって、とても後悔した。女性は体を硬直させたまま、黙って聞いていて、泰彦自身、とても勝手な言い分で、女性にとって聞きたくもないことを聞かせているように感じた。そして、答えを強制しているような質問だ。

「でも、あなたになら、告白しても良いかなと思ったんです」 

泰彦はネットで記事を見て、募金活動に不信感を持って、お金を返してはもらったが、女性に対しての不信感は消え、女性は騙されている気の毒な人で、それは純粋で優しい人だから騙されていて、だからこそ気を許しても良い人だと思った。そう感じるのは、泰彦自身が偏見の目でこれまで見られてきた過去があり、世間から一歩引いたところから、物事を見つめているからだろうと感じた。だから、もう一歩踏み込んだところに入っていきたかった。 女性は首を振りながら、偏見の目では見ていないと言う意思表示をして

「今は、良くなったのですか?」と穏やかな口調で尋ねた。

「ええ、ずいぶんと。闘病生活中にはいろいろありましたが。部屋の壁を壊したり、大切にしていた腕時計の革ベルトを裁ちばさみで切ったり、父母に暴言を吐いたり。暴れまわって家出もしました。家出してもお金を持っていませんから、野宿しながら、転々とさまよい、墓地で野宿していて、警察に保護されました」

女性は、悲しそうな目で私を見た。泰彦は自分で何を言っているのか分からなかった。女性に言葉をぶつけるように話しているように感じた。今まで、押し殺していた感情があふれ出るように。

「そんな私ですが、闘病中にでも結婚をしようと誓い合った恋人ができたのです。私が精神障害者であることを分かっていて、私と交際してくださった女性なのです。でも、恋人と仲が深まって、結婚を考えるようになって来た頃、恋人の母親に、精神病患者は暴力を振るうから、私の娘に金輪際近づかないで下さいと私にではなくて、私の母親に手紙を出されました。それも前起きなく一方的に。それから、恋人は私がかける電話も受け取らず、家に出向いても母親が出てきて、あなたに会わせる娘はいませんと門前払いされました。あとで、恋人は私に別れを告げる電話をくれましたが、それでおしまいです。それだけの仲だったと言えばそれまでです。縁がなかったのよと周りの人からは励まされましたが、そういう目で見られたことのない人には、理解できない感情を抱えたまま、その苦しみに向き合いました。私はその恋人に暴言をはいたつもりはありませんし、もちろん暴力を振るった覚えもないのです」

「それはひどいですね」女性は気の毒げに話した。でもそれは、女性とは別の世界で起こっていることで、女性の住んでいる世界の事としては捉えてないような言い方だった。

「私は、偏見などないと思っていたのですが、確かにある現実を体験してみて、辛いと言うよりは、脱力感に似た悲しみを感じました。でも、もう過ぎたことです。私は私の過去を今は受け止めていて、良いことも悪いこともそのまま私の血となり肉となったように思います」 

私が空を見上げると、女性もつられて空を見上げた。淡水色の空には二筋の飛行機雲が並列に浮かんでいて、二機の飛行機は東の空と西の空にあり、速いスピードで離れていた。 女性はゆっくりと深呼吸した後に、ポツリと話し始めた。

「私は、私の両親と喧嘩をしていて、私の行いを認めてくれないのです。淋しいから、こうやって、ボランティアで募金活動をしているのかもしれません」

「そうですか。あなたも淋しさ抱えているのですね」コクリと頷いた。

「私、信じているものがあるんです。とっても大切なこと」

「それは何ですか?」

「うまく話せなくて。誤解されてばかりです。私の両親に私が信じていることに沿って生きていることを認めてもらえなくて」

「私も、私の信じているものがあります。でも、一番大切にしていることって、人から理解されないものかもしれないですね。でも、それを否定されると自分を踏みにじられているような気持ちになりますよね」 

私が女性を見つめると、女性は淋しそうに笑った。

「名前は、相原さんと言いましたね。相原さんのような女性が私のお嫁さんになってくれたら、私は幸せなのにな」 

女性は、目を見開いて、ひどく驚いた顔をした。

「どうして、そんな風に思いますか?」

「あなたを一目見て、素敵な女性だと思ったのです。私の胸にすっと入り込んでくるような魅力を感じたのです。それが何かと問われたら、うまく答えられないのですが」

「私の心の中は、とっても醜くて、どろどろとしてるんです」

「人間って、そういうものではないでしょうか?」

泰彦の言葉にかぶさるようにして、女性は強い口調で吐き出すように

「私は、信じなければならない事から、すぐに逸脱してしまう醜い女なのです」

悲痛な叫び声のような気がした。泰彦は悲しい気持ちになった。

「相原さんは、今幸せですか?」

と顔色を伺いながら、慎重に尋ねた。

「分かりません。幸せとも言えるし、幸せでないとも言えます」

「人間って正しい事をしていたら、幸せとは限らないのかもしれないですね」

「それは、なぜ?」

「私は、両親に教わった正しいとされる道をたどっていると、何だか違和感感じちゃって。私は本当は駄目な人間で、猥雑で浪費家で不潔で。でも、いつの間にか良い人にならなくてはと無理して無理して、世間で良い道や常識にあわせようとして、価値基準ばかり追っていて、自分を見失ってしまったように思うから」

「私もそうです。本当は、私はとっても駄目な人間なのです。でも、正しい人間の生き方があって、それを目指して一生懸命生きてきたような気がする。私の両親は分かってくれないの。特に母親が。私は、本当は自堕落な人間で、だからこそ、正しい道を歩もうとしているのに。それを認めてくれない。私は小さい頃から、良い子になろうと努力してきたのに、いつも母親にあなたは間違っているとばかり言われてきた。そして、今もそんな関係は変わりません」

女性は厳しい目つきで答えた。

「相原さんは、信じているものを見つけて、楽になりましたか?」

「はい、とっても」

「そうですか」

「あなたは?」

「私は、闘病生活のうちに、両親に私の汚い部分を全部見せ切ったから。人間って、どんな人も汚いものを持っていて、きれいなところだけ磨いていくわけにはいかないものだなって思う。私の心の中には、暴力的な心もあるし、人を憎しみ蹴落とすような邪心もあって、そんな心と向き合っていると、悲しい気持ちになります。払っても払っても消えない汚れです。でも、それを肯定するつもりもなくて、どう生きれば良いのか常に見つめながら、生きていくつもりです。自分の中の汚い部分を見つめていると、ふとした瞬間に何で生きているんだろうとか、辛い気持ちを抱えてしまうときもあります。でも、私の中の暴力性は、偏見の目で見られるものではない。人間誰もが持っているもので、精神病だから持っているというものではないと思う。そういう偏見の目で見られながら、偏見の目で見ている人たちの目そのものが、人間の持つ目だと受け止める気持ちもあります。諦めではないのですが、それが人間と言うものだと思って、闘うのではなくて、大きな大人に対して、小さな子どもが下から見上げているような気持ちになって、受け止める事にしています。私が偏見を受けた時、自分の中にある確かにある暴力性を否定できなくて、偏見の目で見る人たちに、闘う姿勢を取ることも否定することもできませんでした。それは私が弱いからでもあり、現実に向き合っているからでもあります。そして、私自身が偏見の目で見られているように、私が他の人を偏見の目で見ているのだと思います」

「そうですね」

「だから、やっぱり私も含めて、人間って残酷だと思う」

「どうして私にそんな話をする気持ちになったのか教えて下さりませんか?とてもナイーブな話だと思うのです」

「私は玄関の扉を開けて、あなたを見たとき、ああ、きれいな人だなと思ったのです。その美しさは、何か大きなものに身を委ね、内面の静けさを感じる美しさでした」

「ありがとうございます。でも、私は美しくなんてありません」

「この時代、何かに身を委ねるという経験がとても難しいと思います。でも、きっと大きなものに寄りかかって、身を委ねたときに、人は幸せだと感じて、辛い事も受け止めていけるのかもしれません」

「私は、あなたを見たときに、きっと募金して下さる方だと感じました。インスピレーションですが。」

「募金できなくて、ごめんなさい」

「いいえ、いいんです」

「でも、それはどうしてですか?」

「あなたが私を何かに身を委ねていると表現して下さっているように、あなたも何かに身を委ねているように感じたからです。あなたが私に好感を抱いて下さったように、私もあなたに好感を抱きました」

「そうですか。私が何かに身を委ねているとしたら、何だろう?自分でも分かりません」

「あなたは、何か信仰心をお持ちですか?」

「私は、親戚にある宗教を勧められて、入信したのですが、教えを信じることが出来ませんでした。それは、私に信仰心がないからだと思っていたのですが、そうではなくて、その教えを信じることが出来ませんでした。私はその後、恋愛関係や未来が開けぬことに悲観してとても苦しんで自殺しようと思うような辛い経験もありましたが、結局、無宗教で過ごしてきました。でも、不思議なことに、事あるごとに、他でもない何かに祈るという体験をしてきました。辛い出来事にめぐり合って、八方塞りになって、もう駄目だと思うときに、それを乗り越えさせてくれる不思議な体験をいつもするんです。自殺しようと納屋の梁にロープをかけて、首に巻きつけてあとは、踏み台を蹴るだけという時に、ふらっとアゲハチョウが飛んできて、私の顔の周りをぐるぐると回って、何事もなかったように飛んで行って、私はその後、何だか分からないけれど、死ぬことが妙に馬鹿馬鹿しく感じて、死を踏みとどまったり、自暴自棄になって家で暴れていたときに、滅多に来ない友人が、旅に出かけてたからお土産をと思って、とふらりと訪ねてきて、私の気持ちはいつの間にか治まっていたり、生かされているという感覚を何度も何度も味わってきたのです。そんなときに、神様、ありがとうございますとふっと祈りたくなるのです。でも、これからも無宗教で生きていくつもりです。でも、毎日何かに対して祈っています。何かと聞かれると困るのですが、私にはそれが合っているのだと思います」

「私も、私の信じていることに沿って生きています。でも、それは人に話しても分かってもらえないものなのかもしれません。私があなたの経験を分かったような気持ちになって聞いているけれど、経験しないと分からないものなのかもしれません」

女性は淋しそうに話した。

「長くお引止めしました」

「先ほど、あなたは私にお金が宗教活動の資金に流れているとお話して下さいましたが、それは違います。福祉団体に使われているお金なのです。私はある宗教団体に身を置いていますが、これとそれとは別なのです。信じて下さいますか?」

泰彦は女性と話しているうちに、宗教のことに絡んだ話が出てくることで、やっぱりそうだったのだなと感じたが、そのまま流して聞いていた。そして、その言葉と女性の真剣な眼差しの前で、言葉を失った。 

ここで泰彦の正論をぶつけたところで、女性は救われないのかもしれない。 

泰彦は、しばらく考えた後、ハイ、と笑顔で答えた。女性は硬い表情を緩めてほほ笑み、「私、そろそろ行かなくては」と紙袋を揺らしながら、踵を返した。「あなたとお話できて良かったです。危ない事もあるだろうから、くれぐれも気をつけて」泰彦は女性の後ろ姿を見ながら、声をかけた。「ありがとうございます」女性は、振り返りながら会釈をして、泰彦の家から去っていった。 

泰彦は、悲しい気持ちになった。女性は自分が騙されていると、人から言われてどんな悲しい気持ちを抱くだろう。そして、信じているものを否定されれば否定されるほど、頑なになっていって、内へ内へと引きこもっていくかもしれない。私もそうだった。病であることを認めたくなくて、でも病だと言われて、どんどん頑なになっていった。だから、泰彦には女性にあなたは騙されているとは言えなかった。泰彦と女性の間に太い絆はなくて、袖触れ合っただけの希薄な関係だと感じたからかもしれない。自分に勇気がなかったからかもしれない。泰彦は自分の弱さを恥じた。女性はこれからきっと辛い目にあうだろう。そんな予感がした。 

泰彦が信じているいろいろなものも、とてもあやふやで不確かなものかもしれない。女性が信じているものが虚飾に彩られたものかもしれないように。そう思うと、やりきれない気持ちになった。人間は真実の中だけで生きることは出来ないのかもしれない。そんな弱さが付きまとう。世間の小さな嘘にすがって、大きく道を誤ってしまう。泰彦は、何が正しくて何が間違っているのか分からなくなってしまった。女性の美しい目が、泰彦の脳裏に焼きついていた。一点の曇りなく何かを信じきっている目は、この世のものとは思えなかった。泰彦は、その目に吸い寄せられるように、普段は同じ障害者仲間にも話さないようなことまで話してしまった。女性には、そんな魅力があった。 

泰彦は、この世の残酷さに、人間の罪深さに深く傷ついて、何か音楽を聴いて、気持ちを紛らわせようと思った。CDラックから、いろいろなCDを取り出しては、プレーヤーにかけたが、今流行のポップスもロックも手持ちのCDでは何をかけても心が癒やされなかった。数枚かけているうちに、十枚組みのクラッシック音楽集のCDの中のドビュッシーのアラベスク第一番にたどりつき、泰彦の手持ちのCDの中で今はその曲しか、心を癒やしてくれるものはなさそうだった。なぜ、アラベスク第一番ではないと駄目なのだろう、そんな疑問が湧いたが、理由などはどうでも良かった。涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。女性のために泣いたのか、それとも自分のために泣いたのか考えたが分からなかった。どちらのためにも泣いたような気もした。二人が結婚して、一緒になった未来を想像してみた。精神障害者で、世間から一歩引いたところで苦い汁を飲んでいる者と、世間の小さな嘘に騙されて罪を重ねている者、何だか似つかわしいような気がした。アラベスク第一番を何度も何度もリピートして聞いた。 女性のためを思うと、二千円払って、募金してあげた方が良かったのだろうかと考えてみた。父がいつもしているように募金してあげた方が良かったのか、しばらく考えてみた。でも、それはきっと女性のためにも世間のためにも良くないだろうと泰彦は改めて思い直した。 

女性が辛い目に合いませんようにと静かに祈った。もう二度と会うことがないだろう女性。家族との溝が埋まり、騙されている事を知り、その輪から脱け出せるように静かに祈った。泰彦は、自分たちが罪を重ねているなら、神様はもっと罪深いように感じた。そう感じている自分は、神を冒涜していることになるのだろう。でも、泰彦は泰彦の信じていることに沿って、これからも生きていく。しかし、信じている思いが強いほど何かを見失っていて、知らぬところで罪を犯しているのかもしれない。女性がタオルと引き換えに募金を募っているように。 

泰彦は、その日の夕暮れに犬を連れて散歩に出かけた。西の空は緋色に染まり、その中を西に向かって散歩した。女性のことを考えながら歩いた。街路樹の脇にびっしりと生えたえのころ草が海老茶色に染まり揺れていた。もう一度、女性に会いたいと思った。もう一度出会った時、あの美しい目が曇った目になっていなければ良いなと願った。騙されていることを知り、その輪から抜け出て、家族との溝も埋まり、確かな支えを見つけて、その支えに身を委ねた目で見つめられたい。 

熟した果実のような大きな太陽が沈もうとしていた。泰彦の前方にいる若い婦人と幼児が影踏みをしながら遊んでいた。幼児は婦人の色濃く長く伸びた影を一心に踏もうと試み、婦人はしなやかに体を動かして、幼児に影を踏まれまいと逃げていた。

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